経理の仕事をしていると、テンキーとはなかなか縁が切れない。
月次決算、予算作成、データ集計。数字を打つ場面はいくらでもある。
Excelを開いて数字を入れ、確認して、また数字を入れる。そんなことを繰り返しているうちに、キーボードの右側にテンキーがあることを、ほとんど空気のように前提にしていた。
テンキー付きのフルサイズキーボードは、経理の仕事に必要なもの。
少なくとも私は、そう思っていた。
2020年の夏ごろだったと思う。仕事中に、指の表面がヒリヒリするようになった。
大げさな痛みではない。仕事ができないほどでもない。キーを打つたびに、指先のどこかが少し気になる。
おそらく、打鍵の力が強すぎたのだろう。
私は昔から、少し力んでキーボードを打つところがある。仕事が立て込むと、気持ちまでキーに乗ってしまう。Enterキーなど、何の恨みがあるのかというくらい強く叩いていた気がする。キーの方も迷惑だったに違いない。
指にやさしいキーボードを探し始めたのは、そのころである。
「スコスコ」という言葉に負ける
キーボードについて調べていると、「静電容量無接点方式」という言葉が出てきた。
いかにも技術の言葉である。非エンジニアの経理マンには、少し身構える響きがある。
説明を読んでいくと、どうやら指への負担が少なく、長く使っても疲れにくいらしい。
そこで名前が出てきたのが、Realforce と HHKB だった。
ちょうどそのころ、2020年7月21日の「マツコの知らない世界」で「キーボードの世界」が放送された。TBS公式ページにも、HHKB Professional HYBRID Type-S が紹介機種として載っている。
番組の中で聞いた「スコスコ」という打鍵音の表現が、妙に心に残った。
スコスコ。
理屈としての静電容量無接点方式よりも、この擬音のほうがずっと強い。商品説明の何行分にも勝ってしまう。人間、案外そういうもので動く。
TBS公式ページに掲載されていた HHKB Professional HYBRID Type-S の価格は35,200円(税込)。
キーボードに35,200円である。
高い。
毎日使う仕事道具でもある。指の痛みが減るなら、まあ投資と考えられなくもない。そんなふうに自分を説得して、2020年8月、墨色の日本語配列モデルを買った。

小さいキーボードと、経理のテンキー問題
HHKBを使い始めて、打鍵感はすぐに気に入った。
パチパチではなく、スコスコ。
力を入れなくても、指を置けば文字が入っていく感じがある。Type-Sなので音も控えめで、オフィスでも使いやすい。
気づけば、指のヒリヒリは気にならなくなっていた。
これは大きかった。
仕事道具は、すごく便利になった瞬間よりも、不快だったものがいつの間にか消えているときのほうが、ありがたみがあるのかもしれない。
HHKBには、経理マンとして避けて通れない問題がある。
テンキーがない。
小さいキーボードなのだから当然である。
むしろ、その小ささが良くて買ったのだけれど、経理の仕事では数字を打つ場面が多い。テンキーなしでどこまでやれるのか、最初は心もとなかった。
当初は、USBの外付けテンキーを使っていた。
HHKB本体は小さくする。数字を大量に打つときだけ、外付けテンキーを使う。
これはこれで、かなり現実的な解だったと思う。
速度だけでいえば外付けテンキーのほうが速い。
物理的なキーがあるのは強い。予算データを続けて打つときや、数字だけを黙々と入力するときには、やはり専用のテンキーに分がある。
使っているうちに、少しずつ気になることも出てきた。
ケーブルが増え、机の上に置くものが増え、持ち運ぶときには荷物がひとつ増える。
大きな不満ではない。けれど、小さいキーボードを選んだはずなのに、結局その横に別の数字用キーボードを置いている。
その姿が、どこか釈然としなかった。
人間、道具に対しても、妙な一体感を求めてしまうらしい。
キーマップという、忘れていた解決策
何年か使ったあと、ふと思い出した。
HHKBには、キーマップを変更する機能がある。
物理的なキーを増やすことはできない。
Fnキーと組み合わせれば、右手側のキーをテンキーのように使えるのではないか。
試してみることにした。
設定自体は、公式のキーマップ変更ツールでできる。数分で終わった。
私の設定はかなり単純である。
Fn + U/I/O -> 7/8/9 Fn + J/K/L -> 4/5/6 Fn + M/,/. -> 1/2/3
テンキーの並びを、右手側にそのまま移すような形にした。
プラス、マイナス、カンマの位置は少し悩んだが、使用頻度が高いものを押しやすい場所に置いた。
ほかには、Fn + A でボリュームダウン、Fn + S でボリュームアップにしているくらいだ。
あまり変えすぎると今度は自分がついていけない。便利にしようとしたあまり、自分の理解を超える。そういう失敗は仕事でも何度かしてきた。
使い始めてみると、思ったより違和感は少なかった。
最初の数日はFnキーを押し忘れる。
数字を打ったつもりが、普通にアルファベットが出る。地味に気まずい。
配置そのものはテンキーに近いので、1週間ほどで自然に指が動くようになった。
もっと早く試せばよかった、とは思う。5年近く使ってから気づくあたり、道具の機能をまったく使い切れていない。
まあ、説明書を読まない人間にはよくあることである。
速さより、手の移動が少ないこと
ここは正直に書いておきたい。
キーマップで作ったテンキーは、外付けテンキーより速くない。
数字だけを大量に入力するなら、外付けテンキーのほうが楽である。
それでも今はこちらを使っている。
理由は速さではなく、手の移動が少ないことにある。
右手をホームポジションのあたりに置いたまま、数字を打てる。文字入力と数値入力の行き来が、思ったより自然になる。
外付けテンキーがひとつ減るだけで、机の上には資料を置く場所が少し増える。マウスの位置も近くなる。フルサイズキーボードのころは、マウスが遠く、右肩が少し開く感じがあった。
この「少し」が、毎日積み重なると意外と大きい。
40代になると、派手な効率化よりも、身体にかかる小さな負担を減らすほうが効いてくる。
若いころなら気にならなかった机の上の距離や、肩の角度や、指の当たり方が、だんだん無視できなくなる。
HHKBとキーマップのテンキー化は、数字入力の最速解ではない。
毎日使う仕事道具としては、かなり納得できる解になった。
経理だからテンキー付きでなければならない。
そう思い込んでいたけれど、案外そうでもなかった。
5年半使って、まだくたびれていない
HHKBを買ったとき、35,200円は高いと思った。
今も安いとは思わない。
2020年8月に買ってから、もう5年半ほどになる。5年半で割ると、1年あたり6,400円くらい。あと4年半使えれば、10年で年3,520円になる。
こういう計算を始めるあたり、我ながら経理っぽい。
5年半使って、キーの刻印は大きく摩耗していない。墨色だから変化が目立ちにくいのかもしれないが、本体も思ったよりくたびれていない。
接続も安定している。会社では有線、自宅やiPadではBluetooth、といった使い分けもできる。
電池はエネループを使っている。数か月に一度、思い出したように交換する。
内蔵バッテリーならもっと楽なのかもしれないが、電池式には電池式の気楽さもある。これは好みが分かれるところだろう。
欠点もある。
HHKBの配列は独特で、慣れるまで少し時間がかかる。
高さもあるので、私の場合はパームレストがあったほうが楽だった。
テンキー化も、速度を最優先する人には合わないかもしれない。
それでも、私には合っていた。
高い買い物だったけれど、指の痛みが気にならなくなり、机の上がすっきりし、マウスまでの距離も近くなった。
仕事道具としては、それで十分に元を取っている気がする。
経理マンの小さいキーボード
経理の仕事には、テンキーが必要である。
これは今でも、だいたい正しいと思う。
数字を打たない日はないし、テンキーがあれば速い場面も多い。
テンキーが「物理的に右側についていなければならない」かというと、そうでもない。
外付けテンキーでもいいし、キーマップでもいい。場合によっては、作業ごとに使い分けてもいい。
私の場合は、HHKBのキーマップで右手側をテンキー化することで、ようやく小さいキーボードと経理仕事の折り合いがついた。
速度だけなら、もっと良い方法はある。
でも、仕事道具は速さだけで決めるものでもない。毎日触るものだから、机の上の収まりや、肩の開きや、指の疲れ方まで含めて考えたほうがよい。
そういう意味では、HHKBは私にとって、だいぶ良い道具になっている。
最近、分離型キーボードが肩こりに効くという話をまた見かけた。
気にならないと言えば嘘になる。
HHKBに満足しているのに、また別のキーボードが気になってくる。
道具の悩みは、なかなか終わらない。










